傘鉾の由来


 


西M町の傘鉾は製作年月は定かでないが、文化文政の頃(一八〇四年)でないかと云われる。
 元は町内の今村某氏の一手持ちであったが、安政二年九月十三日の秋祭りの時から森家(八代栄之)に移ったもので、約一二〇年の歳月を経たものである。
 蓋上の置物は昔、大名達が御殿で遊戯用具として使った貝桶、貝合せを象ったもので、描かれた源氏絵は、長崎画家石崎融思の絵になるものといわれる。
 今の垂れ幕の内「姑蘇十八景」の刺繍は、文久二年(一八六二年)、当町が踊町の際、祖父栄之が作ったもので、下絵は長崎画家荒木千洲(春漬)が、姑蘇城外寒山寺附近(蘇州)の景を描いたもので、落款は中国人、克三王恭、雨徐溶の両氏で、題字は同じく雨亭氏が書いたものである。
 桜花地紋の塩瀬二重に、諏訪三社の金紋を織り出した垂れ幕は一九〇〇年、町内一般の希望により、父九代森喜智郎が作ったものである。
 

 傘鉾の黒輪は黒ラシャを用い、これは姑蘇十八景の垂れ幕を作ったとき(一八六二年)作られたものである。 又、姑蘇十八景の垂れ幕の生地も当時としては珍しい白ラシャを用いて作られている。
 その傘鉾の黒輪の背後にあるローマ字の「西M町」は、明治十二年(一八七九年)十月、世界的地理学の権威で、最初の北極探険家であるスエーデンのノルデンシェルド男爵が、北極探険から帰航の途次、長崎に回航し、毛筆で揮毫の上、書き与えたものである。
 尚、もみじの樹間に掲げる色紙短冊は、勤王の七卿落で知られる三條西季知卿並に、当時、佛教総監であった永平寺の環渓禅師、及び諏訪神社三代宮司中島行翁の詩歌で何れもこの傘鉾鑑賞して、吟ぜられたものである。

元西M町町内会長(雪屋主人十代目) 森喜知男氏の手記より



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